2013年7月4日木曜日

母危篤4-欲

いつもありがとうございます。感謝。


病院と志事、そして家の往復が続くこと、3か月。


病院側からも、ドクター側からも、そして、親戚からも、、、


なによりも母よりいわれた一言。


『やっていない。』


私の精神状態もマックスを超え、メガに突入したらしく


”〇〇がないから、持ってきてください”という張り紙をみながら

”どうして、ここにきちんとわかるようにおいてあるのに、〇〇がないから。。。”と

言葉ではなく、張り紙をされなければならないのか?


それだけではなく、母にも

”〇〇やってくれていないのね”

といわれた。


大粒の涙と怒りが込み上げ、〇〇をみせながら、

「ここにあるでしょ!」 といった。

丁度、看護婦さんが入ってきた。


わたくしがいらした看護婦さんに「〇〇がないと書かれていますが、〇〇(みせながら)は

ここにあるではないでしょうか?」と訴えた。

すると、母は「その看護婦さんは担当じゃないから、いってもご迷惑になるだけよ」と

看護婦さんをかばった。。。

なぜ?


整理整頓して、お願いする身として、〇〇を余分に準備しておいてあるにも関わらず

母からも、看護婦さんからも、「ない」といわれる。

目の前にあるものを、ないといわれる。


泣いてあるといたら、「あー」とだけ看護婦さんにいわれ、ショックをうけ

対策を考えた。

ひとつひとつ、大きく、〇〇と書くことだ!

そして、ものごとに、袋を決めて、わかるように〇〇と書いておいておくことだ。


そう思い、それは解決。


次は、既に3か月になる母の入院生活をどうにかしなければならない。

危篤状況は続いているが、病院側からすると、ほかの病院にうつるのが

一般的。


母の意思を尊重したい。。。

最期まで。

最後だからこそ、母がどう死と向き合い、どこでどう天にいきたいのか?


今一度母の気持を聞いてみたいと思う。

天になかなかいけないのは、人間の欲というものがあるからこそ

いまを生きているのだと思う。


人間は欲というものをすべてなくしたとき、

本当の意味で、生きている証や意味がわかるのではないかと思える。

やることはやる。できるかぎりやる。


何をいわれても、やることはやっている。

自分の器を零れ落ちるぐらいの能力をコントロールしてこそ

自分なりに精一杯生きているということになるようにも思う。


辛いと感じること。

やっていることが報われないこともあろう。

それはそれでしかたのないことだと

辛いという感情を

受け入れるしかないと思う。


この辛いという感情も感情として感じなくなったとき

人間は人間らしくなれないように思う。


感じたことを、いかに理性をもって

対処できるかに

すべてはかかっているのではないかと


いまさらながらに、歩歩是道場の精神(禅)を思い出す。

自己を磨く道場に、うちもそともないのである。

日々精進し、自己を磨くことで


安らかに母が天にいけるよう

これからも、尽力し

バックアップしていきたいと思う。


試練は、続く・・・


感謝。


Kei



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